仕事や会社に不適合な人間がそれでもこの社会で生きていかなくてはならないとしたら。

副業全般

そもそも会社や仕事に対しては、最初から相性が悪かった。

大学の時にアルバイトをするのも一苦労だったし、就職活動は苦痛そのものだった。

自分の良さを認識できない、自分がいることで迷惑をかけている感じがする、失敗したら恥ずかしい、無能だと思われたくない、そいうった思いが自分の根底にあるので、前向きに仕事に取り組むとか、自分を売り込むなどということができるはずがない。

そんなまま、なんとか学歴にものを言わせて入社した会社で、最初は海外駐在をモチベーションにして無理やりがんばった。幸いなことにそれほどパワハラな上司や先輩もなく、いやむしろ恵まれた人間関係の中で、若さにものを言わせて仕事量をこなした。

今考えると、無心に仕事をして、疲れながらも、人間関係や自分の趣味に癒されることができていた独身の若いころは、いい時代だったように思える。

駐在して本当のビジネスマンとしての力量が問われるようになってからは、苦しみのほうが大幅に増加した。

求められる能力やスキルが、自分の器をはるかに超えてしまい、自分の能力もスキルも育たない。育て方がわからないし、育てた挙句の方向性も見えないのだ(つまり、出世してどうなりたいとか、そういうのがない)。

そうしてだんだんと年齢と責任というプレッシャーにさいままれ、家族を支えるという役割ものしかかってくるようになり、仕事も会社も完全に嫌悪の対象となってしまった。

世の中には、資本主義的な会社組織に絶対になじまない人がいる、僕のように。

人間には存在するだけで価値があるという人がいるし、僕も、存在する価値のない人がいるなどとは思っていない。しかし、結局のところこの社会の中では、「稼げない人」「自分で自分を養っていけない人」というのは生存することがほとんど不可能だ。

実質的には「稼げない人」は「存在価値がない人」なのだ。

稼げないだけではなく、会社という組織の収入や利益を成長させられない人、自分の能力を高められない人、将来に対するビジョンを持てない人、など、多くの会社という組織に求められる理想の人材像を満たしていない人は、ほとんど「存在価値がない」ということになっている。

共産主義も奴隷制も、絶対に嫌だけど、資本主義がそれよりどれほどましかというと、それに適応していない人にとっては、同じぐらい地獄なのだ。

そこからの転換を図るためにの方法は、僕が考えるには2つだ。

ひとつは地獄を押し付けてくる資本主義を利用することだ。

何年か前にトマ・ピケティが提唱して知られるようになった、資本主義の大原則「r > g」に最大限コミットしていくということだ。

つまり、労働者ではなくて、投資するほうに回る。労働者がいくら給与成長のgを増やそうとしても、それは資本増大のrにはかなわない。

僕のような会社不適合者、自己肯定感喪失者、人間関係構築不適格者、にとって、この社会で生きていこうとしたら、労働者側にいてはより無力感を味わうだけだ。

だから労働収入は可能な限り投資に回して、資本の成長や配当収入によって、自分の生を保つという方法だ。

もうひとつは、経済的な成功や達成を求めず、最小限の経済規模で、自分の生を回していくということだ。

rよりちいさなgでも幸せに暮らしていける人はいる。考え方次第だ。

経済的成長や物質的な豊かさをすっぱりと観念し、自分の内面にだけ目を向け、自分の納得だけを追い求める。生きていくために最低限の生活と、生きているという充実感によりどころを求める生き方。

世間や知人友人、隣人との比較はすべて廃し、世にいう成功や名声もすべて求めず、隠遁者のような(少なくとも精神上は)生活を目指す必要がある。

僕はこれらの両方を使って、この地獄を押し付けてくる社会から逃れようとしている。

正直なところ投資は順調とは言えないし、この先何が起こるかもわからない。一方で、いまだに世間との比較に心身を痛めつけられ、経済的成長や物質的豊かさへの執着も、振りほどけていない。

さらに家族という、支えるべき存在がある。それは社会的な役割による理由だけではなく、自分の内的にも、家族を守っていかなくてはならない、という動物の本能的な理由で、やっぱり支えていかなくてはならないと思っている。今ここで僕が家族を放置して家出し、一人で隠居生活をするということは、道徳的にもあってはならないと思う。

ここまで来てしまった以上は、なんとかこの二つを使って、いち早くこの地獄レースから脱出することを考えなくてはならない。

日々の仕事の恐怖から逃れなくては、この世に生存する意義がわからない。

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